「はい、わたしがここに」  02.02.24    イザヤ6:1〜13、ルカ7:48〜49

 自分はどこにいるのか。どこに生き、存在しているのか。
預言者イザヤは「わたしがここにおります」と言いました。
この「ここ」とはどこのことでしょうか。

 それは第一に「ウジヤ王の死んだ年」という時代でした。
イザヤは、揺れ動く時代の只中にいました。ウジヤ王は、有能な王でした。
軍事的にも経済的にも国力を高めた王です。その王が死んだというのですから、
先行きに対する不安が生まれている時代でもあります。
また、周囲の強国の動きも気になる時代でした。
 しかし、イザヤはそんな時代の中にいながらも、自分が神の前にいることを
知っていました。そこは、全能の神の前であるがゆえに、揺れ動かない確かな
場所でした。何があっても揺れ動かない場所をイザヤは持っていました。

 わたしたちもまたその場所を持っています。毎週の礼拝で、神の前に自分の
場所があることを確認します。それを知っているから、激流のような時代の
只中でも、安心して生きられるのです。イザヤは、時代のうねりの激しさを一言で
片付けて、神の大きさに言葉を費やします。それが、神の前に場所を持つ者の
語る言葉です。

 イザヤの立つ神の前という場所は、恐れを引き起こす場所でもありました。
神の聖さの前で、自分の汚れはあまりに大きいからです。
追い出され、滅ぼされることこそふさわしく感じました。
しかし、神はイザヤに御使いを送り、罪と咎を消し去ってしまわれます。
イザヤは、神ご自身によって、神の前に赦された者として生きる者とされます。
そのようにして、イザヤは罪を赦された恵みの場所にいます。

 私たちは、主イエスの十字架によって罪と咎を取り去られました。
「あなたの罪はゆるされた」との宣言を受けて、神のみ前に憩うものと
されています。神がその恵みの場所を用意してくださったのです。
 これはどんな激流に襲われたとしてもなくならない場所です。
「あなたはどこにいますか」との問いに、「私は、神の恵みの中にいます」と
答えられるのです。